スタッフ

代表取締役、クリエイティブディレクター

徳永 健Ken Tokunaga

東京都杉並区出身。早稲田大学第一文学部中退。
大学在学中よりイラストレーター、ライター、脚本・演出家として活動を始める。1995年小説『僕が神になったとき(小学館)』出版。挿絵を担当した 角田光代・作『ぼくはきみのおにいさん(河出書房新社)』が坪田譲治文学賞受賞、柏葉幸子・作『ミラクルファミリー(講談社)』が産経児童出版文化賞・フジテレビ賞受賞など数々の賞を受賞。2007年、佐藤小林とともに株式会社クラウドボックスを設立。

──演劇などの経験をされてから「デザイン会社」を設立されたと聞いています。そのあたりの経緯を伺えますか。

はい。今は「デザイン会社」を名乗っていますが、元々ちゃんと学校でデザインを学んだことなどはなくて。もともとはマンガ家になりたかったんですよね。

──最初はマンガ家志望だったんですか。

ええ、小学校の頃に手塚治虫さんに憧れて、実際に仕事場に会いにいったこともあります。そのまま高校生くらいまではガチでマンガ家になる気で、雑誌に投稿したり、同人誌を作ったりしていました。高1の時にはまだ初期のコミケに出たりもしてたんです。ところが、兄が出版社に就職してマンガの編集者になるという事件が起きまして、「兄に原稿を取り立てられる仕事」だと思ったらマンガ家への憧れが失せてしまって(笑)、それで路線を変えました。で、20代はずっと演劇にはまって、劇団では作・演出・出演をやるようになりました。マンガは完全に個人作業なので、演劇の「共同作業」で「ライブ」なところが面白かったんですね。デザインを身につけたのはこの頃で、「自分の思い通りに芝居のチラシを作りたい」という強い想いがあったからです。一方、演劇では全く食えなかったので、ずっとフリーランスとして、雑誌や書籍のイラストを描いたり、デザイナーをやったり、ライターをやったり、映像ディレクターをやったり、映画評論をやったり、小説を出したり…とにかく、自分で「できるかも」と思うことは何でも引き受けて、それでなんとか食いつなぎながら、劇団を続けてました。で、30代になって演劇に区切りをつけた後、「ネットが儲かるらしい」と聞いたのでWEBサイトを作り始めたら、それなりに仕事がもらえるようになって。それで40代になってグラフィックとWEBを柱にした「デザイン会社」を設立した、という流れです。

──なるほど。なかなかバラエティ豊かな道のりですね。

ですね。まともに働いているの40代になってからですからね(笑)。働きはじめてまだ10年ちょっと。やっと30才くらいになったかな、くらいの気持ちです。

──「クラウドボックス」という社名はどうして?

「デザイン会社」なのに「クラウド」。変ですよね?実は、この社名はいわゆるクラウドコンピューティングの「クラウド」とは全く関係がないんです。

──え、そうなんですか?

はい、最初にこの「クラウドボックス」という名前を思いついたのは、会社設立前の2005年で、1年半ほど所属していたデザイン事務所を退職してフリーに戻ったころです。「雲」と「箱」って、すごく「想像力」と縁の深い言葉だと思って、それで命名しました。たとえば「雲」って、見る人によって龍に見えたり、お菓子に見えたり、その人の心持ちで自由に形を変えるものじゃないですか。それに「雲」と言われて浮かぶイメージも、入道雲から曇天まで千差万別です。「箱」もそうで。カラ箱があれば「何を入れよう?」と思いますし、フタされた箱があれば「何が入ってるんだろう?」と思います。そんなところから、「雲のように豊かで柔軟で、おもちゃ箱みたいにワクワクして、誰かの想像力をカタチにする魔法の箱になりたい」という想いで「クラウドボックス」としました。

──なるほど。そんな素敵な由来なんですね。

ええ。なんですけど、最近「クラウドボックス」で検索すると他社さんの色んなサービスが出てくるようになったんで困っています(笑)。「クラウドサーバの会社ですか」みたいに聞かれたりして。「違います」って(笑)。本当は、Googleのエリック・シュミットさんが「クラウドコンピューティング」って言い出したのは2006年らしいので、僕の方が早かったんですけどね(笑)。でもまあ、《その中に想いを預けると、なぜだかわからないけれど、カタチになって返ってくる魔法のような存在》を「雲」に見立てて表現した、という意味では一致しているので、もしかすると「あ、クラウドいいんじゃん?」と思いついたのは、僕とエリック・シュミット、ほぼ同時くらいだったのかもしれません(笑)。

──今、会社の掲げているミッションやバリューには「愛と感謝」という言葉が重ねて使われていますね。

ああ…いきなり「愛と感謝」とか言われると、ちょっとうさんくさいですよね?(笑)。

──いえいえ。でも、どうやって行き着いた言葉なのかと思って。

会社を始めて一年くらいですかね。突如思いついたんです。その頃、ちょっと「楽して儲かる」みたいな、うまい話的な仕事をお声がけしてもらって。当時は本当にお金がなかったので「なんか嫌だけど、会社にしたからにはこういう仕事を引き受けないといけないんじゃないか」みたいに思って、ちょっと悩んで。そんなある日、会社からの帰り道に突如浮かんだ言葉が、今、コアバリューとして掲げている「まず、愛と感謝。次に、好奇心と向上心。ここまでは必須」という言葉だったんです。本当に、ワンセットでぽんと浮かんで。その瞬間に「あ、そうか。愛と感謝が基準でいいんだ。好奇心と向上心がエネルギーでいいんだ。そしてそのどれかがなくなったと感じたら、その時は会社をやめるしかないんだ」と、思いました。それで、道ばたですぐにその言葉を携帯からメールで自分に送って。今も、僕のメールボックスの一番下には、2008年に自分から送られたそのメールが残っています。ミッションを「デザインで、もっと、愛と感謝を」という言葉にしたのは、それよりは後で、かなり最近のことです。

──最後に、これから、クラウドボックスについてお願いします。

「まず、愛と感謝」この気持ちは変わりません。これは常に抱きつつ、会社のスタイルとしては、もっとひとりひとりのクリエイターが自分の個性や得意をめちゃくちゃ発揮できる会社にしていきたいです。イメージとしては「デザインの『X-MEN』」みたいな。手の甲からグラフィックデザインの刃が出るデザイナーとか、目からCSSのレーザーが出るエンジニアとか(笑)、そんな集団を目指していきたいですね。

専務取締役/WEBディレクター

佐藤 小林Kobayashi Sato

大阪府出身、三重県育ち。
かつてはミュージシャンとしてメジャーデビューを果たした経験を持つ。2007年、徳永とともにデザイン会社・クラウドボックスを設立。しかし、当時はデザインもWEBもまったくの素人。初めてHTMLのソース画面を見せられた時に「こんな暗号は読めるようになりません」と宣言したエピソードは語り草になっている。

──まずは、お名前のことを伺いたいんですが……これは、まさか本名ですか?

本名です、まさかの(笑)。読み方もそのまま「さとう、こばやし」。英語風に言うと「コバヤシ・サトウ」ですね。

──珍しいですよね。名前にまつわる面白いエピソードとか、たくさんありそうです。

ほぼ毎日ありますね。会社に来る郵便物の大半は「佐藤様 小林様」って宛名が連名になってますし。セミナーに「佐藤小林」名義で申し込みをすると「1度に申し込めるのは1名様までです」と言って断られますし(笑)。

──子どもの頃とか、苦労されたりしませんでしたか。

いやいや、出身が関西というせいもあるかもしれませんけど、子どもの頃は得することだらけでした。たとえば高校に入った時とか、入学してすぐに、ヤンキーの先輩が数人で僕の教室に来て「佐藤小林ってやつはどいつや」って呼び出されまして。その時は「あーあかん、もうボコられる」って一瞬は観念したんですけど、なんか「お前、おもろいな。なんかあったら俺らに言えや」って、なんもしてないのにいきなり可愛がってもらえて(笑)。この間抜けな名前のお陰で、どんな人の緊張感も解いてしまうという、これはすごいメリットというか、もう僕だけの特技ですね。

──佐藤さんはミュージシャンも経験されてるんですよね。

はい、20代の頃は事務所にも所属して、ガチでメジャー目指してアーティストやってました。実はさいたまスーパーアリーナでワンマンでライブしたこともあるんですよ。日本で初めてさいたまスーパーアリーナでライブをやったのは僕らなんです。

──え?すごい!こけら落としってことですか!?

いえ、こけら落としはGLAYで。僕たちはGLAYのシミュレーションとしての「プレこけら落とし」だったんです。でも、そのお陰で、GLAYとまったく同じ客席で、警備員とかもずらっと配備されてて、照明や、銀紙がぼーん!って打ち出される演出とかも全部テストしたので、演出もものすごかったんですよ。違うのは観客の数だけ、という(笑)

──なかなかできない体験です。音楽活動は今も?

はい、今は「Farmars’ Market Ave.」というユニットでコンポーザーをやってます。

──「WEB制作」と「ミュージシャン」。二足のわらじを履きこなしてるってことですね。

まあ、名前も「佐藤」と「小林」って2つ持ってますからね(笑)。

──クラウドボックスを設立したときは、デザインもWEBも、まったくの未経験だったとか。

そうですね。どうして徳さん(代表・徳永)が僕をパートナーとして誘ったのかはいまだによくわかりません。デザインもコーディングも、ホントに何もできませんでしたから。でも、自分自身は──もちろん最初はなんもできないで戸惑いましたけど、そこまで感覚的な違和感はなかったんですよね。デザインが好きだったのもありますけど……僕、ひと言で言っちゃうと、「誰かのお役に立ちたい」んですよ。今、音楽をやっているのは「音楽で世界中を笑顔にするお手伝いをしたい」というテーマがあるからだし、WEBを作るのも、いいデザインを作ることでお客さんに喜んでもらえて、そしてその「お客さんのお客さん」にも喜んでもらえる。自分が成長すればするほど、お役に立てる人の数が増えていく。僕の中では「誰かの役に立つこと」と「成功」という言葉はすごく近いイメージなんです。そういう意味では、音楽もWEBも、自分の中の根っこは一緒なのかもしれません。

エディトリアルディレクター、ライター

竹野 恭子Kyoko Takeno

群馬県太田市出身。共立女子大学文芸学部芸術コース卒。
大学卒業後すぐにOL劇団を旗揚げし、すべての作品の脚本・演出を担当。その後、印刷会社、マーケティング会社、広告代理店などを経て、2008年クラウドボックス入社。社長の徳永とは演劇時代からの長い付き合い。

──「デザイン会社」に「ライター、エディター」という肩書きのスタッフがいるのは珍しいような気がするのですが?

クラウドボックスという会社は「デザイン」という言葉の定義を広く「お客様の《想い》を《カタチ》に変えて《伝える》こと」と捉えているので、言葉というのもとても重要な要素のひとつなんですよね。私も以前いた会社ではデザインをやっていた時期もあるんですが、クラウドボックスの「言葉も重視したい」という方針で、今は「ライター」を名乗っています。

──もともと「ライター」になろうと思ってたわけではなかったんですか?

そうですね……実は意外と「来ちゃった流れに身を任せる」タイプで(笑)。
でも、子どものころから文章を書くのは好きでした。小学生のときに私の書いた作文が地元の新聞に掲載されて。しかも、そういう作文が新聞に載るときって先生がけっこう直しちゃったりするイメージがあったんですけど、私の作文はそのまま掲載してもらえて。それで「私は文章が上手いんだ!」と、“その気”になりました。

──若い頃は脚本も書かれていたとか。

はい、大学時代に演劇部に所属して、その頃から脚本を書き始めました。実は、クラウドボックス代表の徳永とはその頃に出会っています。その時は、彼は俳優、私は照明担当という間柄でしたけど。
で、卒業するとき、仲間と「社会人になっても続けられる劇団をつくろう!」という話になって、『かたてま天花粉シアター』という名前の劇団を作りました。「現役OLが“かたてま”を看板に掲げた劇団」ということでちょっと注目してもらえて、雑誌の取材なんかもそこそこあったんですよ。でも、だんだん演劇の方に本気になっちゃって、メンバーがOLを辞めて本腰を入れ始めたら注目されなくなりました(笑)。

──その頃からライターとしてのお仕事もされてたんですか?

そうですね。業界誌の出版社にいた頃はいろんな会社の取材記事とか書かせていただいてましたし、マーケティングの会社にいた頃には本を一冊丸々書かせてもらったこともあります。いわゆる、ゴーストライターみたいなやつですね。
その後、子どもがちょっと病気になって、残業や不規則が多い仕事ができなくなってしまって。でもまあそれも「流れ」かなと思って受け容れてフリーになることにして。その時に、旧知の仲で、ちょうどクラウドボックスを立ち上げたばかりだった徳永に「フリーになったからライティングやデザインの仕事あったら紹介してねー」ってメールしたんです。

──それで、クラウドボックスに。

はい。最初のうちは、単発でライティングのお仕事を自宅でやる感じでした。でも、その後クラウドボックスにライターが必要な仕事が続けて入ってきて、徳永が「子どもの病院の日は休んでいいし、四時に帰っていいから毎日出社しない?」と言ってくれました。

──まさに、「流れ」がきたんですね。

そうですね。演劇をやっていた頃は「自分で流れを作ってやる!」っていう気持ちが強かったんですが、30代の後半くらいから「流れは、待ってればいつか来る。何かが私の背中を押してくれる」と考えるようになりました。あとは、自分がその流れを見極められること。来た流れにすっと乗れる状態でいることが大事なのかな、と思いますね。今も、そろそろ次の楽しい波が来そうな気がして、それが何なのかはわからないけれど、ちょっとワクワクしながら待っているところです。

アートディレクター

園田 理明Masaaki Sonoda

群馬県桐生市出身。日本デザイナー学院卒。
高校時代は甲子園を目指す高校球児。体育教師を目指して日本体育大学に進学するも、人前で物事を教えることに向いていないことに遅く気づき、デザイナーに転身。広告代理店勤務を経て2010年クラウドボックス入社。

──日体大を卒業してからのアートディレクターという面白い経歴を持つ園田さん。大学時代はトレーナーになる勉強をしていたとか。

そうですね。でも子どもの頃は絵を描くのが大好きで、将来は絵を描いたりものを作ったりする仕事に就きたいと思ってたんです。『ドラゴンボール』の模写ばかりして、友だちとスーパーサイヤ人に似せた『スーパーサルダ人』という猿のキャラクターを作ったりして。それでまず筋肉の描き方を覚えたんですよ。

──あ、なるほど!先に「筋肉を描く」ことから入ったんですね。

そうなんです。ところが小5のときに兄の薦めで少年野球に入ることになって、そこで追いかけるものが「ドラゴンボール」から「軟式ボール」に変わってしまいました。でもやっぱりマンガは大好きで野球マンガの『ドカベン』にはまって…あ、もちろん『ドカベン』世代ではないので、まわりで『ドカベン』を読んでるのは僕だけだったんですが…でも『ドカベン』の山田太郎の絵ばかり描いていたら、実際の野球でも強打者になってしまいました(笑)。で、そのまま高校3年間は甲子園を目指すことに費やして、高3の時、先生に「美大に行きたい」と言ってみたら「それは無理だ」とあっさり言われてしまいました。

──それで日体大に入ってしまった。

そうなんです。でも、子どもの頃からずっと筋肉を描いていたので、筋肉の名前を覚えるのはすごく早かったです(笑)。で、卒業間近までいってやっと、自分が体育の先生タイプじゃないことにはっきり気がついて、あらためて、絵を描いたりものを作る仕事をやろうと決意しました。

──なるほど。それでやっとデザインの専門学校に入るわけですね?

はい、1年フリーターをやって学費を貯めてから、日本デザイナー学院に入りました。ちょうどその頃、吉祥寺の井の頭公園に遊びに行って。そこで猫を拾って「きっちょむさん」という名前をつけたんです。吉祥寺という街に惹かれ始めたのはそれがきっかけでした。
その後、広告代理店に5年勤めて、30才を前にしてそろそろフリーで独立しようかなと思った時に、ふと「吉祥寺で働くのもいいかな」と思いついて。それで検索して1番に出てきたのがクラウドボックスだったんです。

──それで求人に応募したと。

いや、その時、クラウドボックスは求人していなかったんです。でも、まあいいかと思って「御社に転職しようと思います」とメールを出してみたら、採用してもらえました。とりあえず言ってみるもんですね(笑)。

──小学生の頃の筋肉の絵からここまで、かなり長い道のりがあったんですね。

そうですね。でも、「ドラゴンボール」に始まって、「ドカベン」から「デザイナー、ディレクター」ですから。全部「D」で一貫はしてますよ(笑)。今では体育会系の面影はほぼ全くなくなっちゃいましたけど、これからはもっと「しなやかな筋肉」を持つ「骨太」な「D」を目指していきたいですね。

デザイナー

風間 咲笑Sakie Kazama

神奈川県相模原市出身。東洋美術学校卒業。
趣味はテニスと掃除。こんにゃく、春雨、なすなど、基本的に栄養価が低くて淡泊な食べ物が好き。
小学生の頃からデザイナーを志していたが、「そんなこと口にしたらバカにされる」と思い、「将来は翻訳家になりたいです」と公言していたという。2018年入社。

──趣味が「掃除」って珍しいですね。若いのにちゃんとしてるというか。お母さんがすごくきれい好きとかですか?

いえ、家族で掃除好きなのは私だけですね。自分の部屋も、飾り気がなさ過ぎて男の子の部屋みたいだってよく言われます。

──物を捨てられるタイプなんですね。

はい、すぐ捨ててしまいます。断捨離グセがあるというか…この間は、LINEの「友だち」を整理してて、気がついたら会社関係以外の友だちが7人しか残っていませんでした。あ、その中に家族も含まれていたので、純粋に友だちは4人くらいです。私、グループLINEの返信とか基本的にしないので…残ったその4人は、そんな私にも連絡をくれ続ける有り難い友人たちです。

──クラウドボックスに入られたきっかけを教えてください。

実は私、専門学校に入った頃からクラウドボックスの存在は知っていたんです。友人で吉祥寺に住んでいた子に「吉祥寺いいよ」と言われていたので、デザイン系の会社もあるのかな?と思って検索していました。その時はクラウドボックスは求人をしていなかったので、新卒は採らない会社なのかと思っていましたけど。
その後、PR系の会社や広告代理店など色んな会社にインターンとして所属したんですけど、どこもちょっときついというか…私の思い描いていた「デザインの仕事」が全然できなくて、「デザイナー」という言葉のイメージが変わってしまって。2年の夏には、もうデザイナーとして就職するのはやめようかなと思いかけていたんです。そしたら、そのときたまたま、某求人サイトで佐藤さん(専務)が私のポートフォリオに「いいね」してくださって。「あ、あの吉祥寺の会社だ。じゃあここだけ受けてみようかな」と。

──運命の再会ですね(笑)。ちなみにその、『思い描いていた「デザインの仕事」』というのはどんなイメージだったんですか?

私、小さい頃からデザイナーになりたかったんですが、でも「自分を表現したい」という感覚じゃなくて、ずっと「自分がいいと思うものより、相手にとっていいと思えるものを作りたい」って思ってたんです。「誰かの夢とか想いをカタチにすることで喜んでもらえるのが嬉しい」みたいな。そういう「想いを汲み取って試行錯誤する」作業がしたかったのに、やらされる仕事は「とりあえずこれのマネして作って。明日まで」みたいな(笑)

──クラウドボックスの掲げるデザインの定義は「誰かの想いをカタチにして伝えること」ですよね?ぴったりじゃないですか。

そうなんです。でもこれ、本当に後付けじゃなくて、専門学校の受験の時にはもう同じ発言してたんです。

──なるほど。やっぱり運命的ですね。

そうかもしれません(笑)。私、どちらかというと「ちゃんとしてる」ように見られがちなんですけど、それはすごく心配性で豆腐メンタルだからで──それはもう、人生において大きな失敗談を思い出せないくらいの心配性だからなんですけど。でも、そんなに心配性なのに、子どものときに抱いた「デザイナーになりたい」っていう夢だけは捨てないでここまで来られたんですよね。だから今は、「とりあえず、やってみる」の精神で、色んなことに挑戦して、色んなことがこなせるデザイナーになりたいと思っています。それでいつか、自分の名前に込められた「人の笑顔をたくさん咲かせられる人になってほしい」ということをデザインで実現できるようになりたいです。

──「ちゃんとした」コメントありがとうございました。

(笑)

フロントエンド・エンジニア兼WEBデザイナー

森下 誠也Seiya Morishita

岐阜県出身。好きな食べ物はにんにくと唐辛子と牛脂。
高校時代にはオンラインゲームにはまり世界を穫りかけたという経験をもつ。
2018年入社。

──上京して8ヶ月になりますが(インタビューは2018年秋)。一番大きな変化は何ですか?

髪が傷んだことですかね(笑)。この8ヶ月で7回ブリーチしてるんで。

──8ヶ月で7回ブリーチ!

元の黒から、最初は金髪にして、そこから青緑にしたり、モンスターズインクのサリーみたいな色にしたり、ピンクと紫のツートンにしたり…。最初は友だちとの罰ゲームで無理矢理にやらされたんですけど、そこから続いちゃいました。

──なかなか…個性的で素敵です(笑)。ちなみに子どもの頃はどんなお子さんだったんですか?

子どもの頃はDJになりたかったんですよ。小2の時にダフト・パンクを聞いて衝撃を受けて、そのあと地元のイベントでテーブル回させてもらったらDJのお兄さんに「才能ある」とかすげーほめられて、気分よくなって「いつかDJになろう」と思いました。
あとは、小学校時代は折り紙教室にずっと通ってて、県の展示とかにも出品されてました。もしかすると、今WEBのコーディングをやっていてデザインをグリッドに分解して物を見るセンスは、折り紙で養われたかもしれません。

──なるほど。折り紙も、ロジックとセンスが必要ですからエンジニア兼デザイナーにつながるというのも分かる気がします。プログラミングは、高校とかで教わったんですか?

いや、最初の体験は、中学校に入って父親が中古PCを与えてくれた時で、いきなり「このパソコンを壊せ。物理的にではなく内部的に壊せ。そして、直せ」っていう課題を与えられました。要は、ウィルスをインストールして、それを駆除しろっていうようなことだったんですけど。パソコンで遊びたいのに、直さないと遊べないじゃないですか。それでパソコンのファイル構造を勉強して、ああ、Cドライブっていうディスクがメインなのか。じゃあその中の、この感染した時間帯に該当するファイルを探して駆除すればいいのかな…みたいなことをやって。

──な、なんかすごいエリート教育ですね。

いや、全然ですよ。一応高校は情報系の高校に行ったんですけど、プログラムの勉強をするって言う学校を選んで入学したのに、その学校、プログラミングを紙に書いて勉強させるんですよ。あり得なくないですか?だから「このままここにいたらダメになる」って思って、「生き残るために自分でできることは何だ?」と悩んで、自力でやってたのが、とにかくフローチャートをひたすらやることと、画像編集ソフトを覚えることと、あとはオンラインゲームだったんですよね。

──高校時代は相当ゲームにはまっていたと聞きました。どんなゲームをやってたんですか?

FPS(First Person Shooter 一人称目線でのシューティング)系のゲームです。英語版しかないやつだったんであんまり国内に競争相手がいなかったんですけど、それでも世界目指して5000時間はやりました。

──5000時間!すごいですね。会社員の勤務時間にしたら30ヶ月分くらいですよ?

まあ、当時は本当にガチだったんで。毎日、試合前にはマウスの素振りをしてたんですよ。

──マウスの素振り!?

そうです。この、シュッて振ったマウスの一振りで、キャラクターがターンできる角度を測るんです。その日のヒジ間接の動きによって微妙に違うんで、それを調整するんです。ほんの数度のずれで殺られちゃいますからね。

──なるほど……その技術は、今の仕事に役立ってますか?

いやーどうですかね(苦笑)?それはあんまり役だってないんじゃないですか?でも、その時期に、すごくいい仲間はできましたよ。今でもしょっちゅう連絡とってます。
「没頭してる時」って、すごく贅沢な時間だと思いません?仲間とゲームやってた時は、本当にそれがあったんですよ。でも、どんなに好きなゲームでも、いつかはピークがきて、そして離れて行っちゃうんです。それはもうどうしようもなくそうなんですけど。でも、没頭して、どんどんはまっていって、自分を成長させていって…その時間は最高で…そうやって考えると、あらためて、「学ぶ」って実はすごく贅沢なことだと感じるんですよね。自分の成長に対して没頭できる時間。今は、クラウドボックスに入って、仕事しながら勉強できてて、しかもお給料もらいながら……。あー、今これ、最高じゃないですか(笑)

総務・労務・経理

徳永 路子Michiko Tokunaga

茨城県出身、ときどき会社に犬を連れてくる係。

CONTACT